読書会レポート 2017年8月

~ヘッセ『荒野のおおかみ』~

「自分は昔から生きとし生けるものの両極性を貴ぶものであり、いつも矛盾性と魂の二元性とに心をひかれてきた」

「荒野のおおかみ」では、相反する理性と本能という人間の二元性、そしてヘッセ自身が文学作品を通して生涯問いつづけた「内面への道」がテーマとなっている。

時代背景は第一次世界大戦直後のドイツ。異国文化が流れ込み、機械化の進む市民生活においては、主人公ハリーが慣れ親しんできた、自然、音楽、哲学思想は軽んじられるようになる。そんな社会風潮に同調できずに孤立を極めたハリーは、自分とは正反対な生活を送りながらも同じ絶望を抱える不思議な女性ヘルミーネの導きで、ダンスやジャズをたしなむようになり、これまで敬遠してきたものたち、さらには自分自身の混沌とした内面と向き合おうと奮闘する。はたしておおかみと人間の二元性は、共存、和解あるいは克服しうるのか…?

前半はストーリー性や時系列といった理解のヒントとなる要素や人物描写が少なく読みづらいと感じた人が多かった。そもそも登場人物が少ない。ヘッセ自身が投影されたハリ―、彼が敬意をよせるゲーテ、ニーチェ、モーツァルト、そしてヘルミーネは(おそらく)ハリ―の一部であり、パブロはモーツァルトの化身ではないかという意見を汲むと、物語というよりはヘッセ自身の頭の中の葛藤をそのまま描いた作品であることがわかる。

支離滅裂な幻覚か夢ともとれる魔術劇場の場面では特にそれが顕著に感じられた。そこでハリーはついにおおかみと向き合い、おおかみを「笑い」で消滅させる。そして自分の良き理解者であり、理想の女性の象徴でもあったヘルミーネをも刺し殺してしまう。もちろん、すべてはハリーの劇場、精神世界での出来事である。

一見、破滅的な結末のようだが、ハリーは最後にモーツアルトに「永久に生きる罰」を処され、生きることを、ユーモアを学ぶよう諭される。自分自信の苦悩、真剣さ、悲壮感を笑い飛ばすことで「能力の衝動や努力の残余の全混沌」であるおおかみと別離する。

永久に生きる罰―それはヘッセが自分自身に課したある種の希望でもあった。作家として作品や思想を残すこと、すなわち死への恐怖や時間という障害を乗り越え、「永遠」を目指すことで、今後の人生を歩む決心と希望を見出したのではないか。彼の“不滅なものに対する強い信仰”が感じられるエンディングである。

作品全体には、死、神、永遠、自由といった形而上学的テーマがちりばめられ、(翻訳の堅苦しさも相まって)難解で憂鬱と感じる人が多かった。それでも、魔術劇場での一幕は退廃的なヌーヴェルヴォーグの映画のような疾走感や、デヴィット・リンチのサイコスリラー映画のような不気味さがあり、文学作品として十分に楽しめる要素もある。また、読書会で視聴したSteppen wolf の音楽やヒッピー運動は、反戦思想、自由と平和を唱えたヘッセから大きな影響を受けている点からも、彼の作品は多方向からの解釈が可能だ。東洋思想的な魂や個性とらえ方、精神分裂症や人格形成といった心理学的キーワードからこの作品を読み解くのも面白いかもしれない。

最後に、物質的に満たされた世界で、生活に追われ自己と向き合うことがないがしろにされているというヘッセの批判は、現代人にも通ずるところがある。答えのない問いは不必要といえばそれまでだか、意味がないわけではない。自己探求や人間の美徳とは何かといった古典的テーマを熟考してみるきっかけとして本作品を読み返してみることをお薦めしたい。

(By T.S.)
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読書会レポート 2017年7月

~三島由紀夫『春の雪』~


 「優雅というものは禁を犯すものだ、それも至高の禁を」


 松枝侯爵家の嫡子にして美貌の松枝清顕は、幼馴染の伯爵令嬢である綾倉聡子が宮妃になるとの勅許が下りた瞬間、かねてより望んでいた「絶対の不可能」に向かって走り出した。

 宮妃との内通は皇室に対する不敬であり、清顕と聡子が生きた時代では大罪である。清顕は20歳の若さで死に、聡子は清顕の子を堕胎した末に剃髪し、この世では二度と清顕に会わないと決意するのである。

 「春の雪」は、男女二人がこのような悲劇的な結末を迎えるゆえに、「悲恋小説」であると言われることが多い。
 確かに、清顕と聡子の「恋」が結婚という形で成就しなかった背景には、清顕が聡子に誇りを傷つけられたと感じたことに対する復讐があり、二人の感情の行き違いが悲劇を生んだといえる。

 しかし、清顕が欲していたのは「絶対の不可能」であり、聡子は清顕の手の届くところにあった「絶対の不可能」に過ぎなかったと考えると、清顕は聡子に恋していたといえるのか、「春の雪」は果たして恋愛小説といえるのかという疑問がある。

 この問いに対して、そもそも恋愛小説とは何かという意見から始まり、清顕の年齢の若者は恋愛と執着の区別がつかないのではないか、清顕は初めから聡子に恋をしているのであるが、年上の聡子に対して優位に立ちたいあまり、冷淡な態度を取ってしまっていたのではないか、といった意見が聞かれた。清顕のように自意識(美意識)過剰の青年は、現代にも少なからず存在するだろう。

 関連して、「春の雪」で描かれている恋愛は観念的で作り物めいているという感想もあった。「観念的な恋愛」というテーマは同じく三島由紀夫の「美徳のよろめき」でも描かれている。「美徳のよろめき」のヒロインで人妻の節子は、「道徳的な恋愛をしよう」と思い立ち、その相手として知人の青年を選ぶのである。その青年自身に恋しているから恋愛をするのではなく、「道徳的な恋愛」という目標の達成を可能にする相手を選んで恋愛をするというのは、本末転倒のようにも思われるが、「春の雪」も同じ構図ではないだろうか。清顕が聡子に対して「一般的な意味で」恋していたかどうかについては意見が分かれたが、清顕の最終的な目標は「絶対の不可能」であり、 それに 直面する手段(過程)が聡子との「恋愛」であったとすると、「春の雪」は三島由紀夫の得意とする観念的な恋愛小説ということになる。

 
 次に、「春の雪」は恋愛小説であると同時に、輪廻転生をテーマとした「豊饒の海」4部作の導入でもある。「春の雪」の登場人物の何人かが2作目以降の「奔馬」「暁の寺」「天人五衰」にも現れるのであるが、「春の雪」ではその後の展開の予兆となるべき伏線が張られていることが指摘された。
 4部作を通して登場し、輪廻転生を見守るのが清顕の親友の本多であるが、「春の雪」における本多は理性的な人物として描かれている。法律を勉強していた本多は「奔馬」で裁判官となり、松枝家の書生であった飯沼の息子の勲が起こした事件のために弁護士に転じ、清顕の代わりに勲を救おうと奮闘するのであるが、「暁の寺」では覗きを趣味とする老人になってしまう。「春の雪」では本多が殺人事件の裁判を傍聴する場面があるが、事件に接するうちに、熱い闇に惹かれる心理が自分にもあることに気づくのである。この裁判の場面は、本多が他人の情熱を見守る立場から、情熱に突き動かされる立場に変化することの伏線ではないかとの意見があった。三島由紀夫が計画的・論理的に物語を構成する作家であることがよくわかる。

 「豊饒の海」4部作のうち、「春の雪」「奔馬」「暁の寺」では、主人公となる人物が20歳で夭折する。3つの作品が夭折で終わることに対しては、三島由紀夫自身が夭折を夢見ており、戦争で死ぬつもりであったのに戦後も生き残ってしまったことから、三島由紀夫の理想の死を描いているのではないかとの意見があった。
 実際に、「豊饒の海」では夭折せずに生き残る人物は堕落していく。本多は覗き老人となり、書生の飯沼も俗物となる。これに対して、夭折した人物は美しいまま残された者の記憶に残る。最後まで生き残った人物の中で美しいままであったのは聡子であるが、「天人五衰」では、聡子のいる月修寺を訪ねた本多に対して、これまでのストーリーを全否定するようなことを言うのである。タイトルの「豊饒の海」は月面の盆地であり、水も生命体も存在しない場所である。「天人五衰」の結末については議論のあるところだが、「豊饒の海」というタイトルは結末の伏線になっているのではないかとの指摘もあった。聡子の最後の言葉通り、全てが初めから存在しなかったとするならば、三島由紀夫は「豊饒の海」という超大作を通して、三島一流の華麗な文章を通して何を伝えたかったのであろうか?
 
 三島由紀夫のインタビューを聞いたことがあるが、現代では死から物語が失われているということが述べられていた。単なる病死や寿命による死には物語が存在しないが、青春の絶頂の死は物語の題材となる。ドラマティックな死に魅せられ、自らの死もドラマティックに演出しようとした三島由紀夫は、自分の美意識を総動員して「春の雪」を筆頭に「豊饒の海」を描いたのであると思われる。三島由紀夫自身が「輪廻転生」を信じていたかどうかということも議論になったが、「輪廻転生」は夭折する美しい者と、夭折がかなわず夭折の美を傍観し続ける者という構図を成り立たせるための道具立てとしての役割を果たしているといえる。

(by Y.S)

読書会レポート 2017年6月

~三島由紀夫『潮騒』~

 ギリシャ旅行後、三島29歳の時の作品。美しい自然に囲まれた文明の届かない島で、若く美しい恋人たちが苦難を乗り越え結ばれるというストーリー。読後の印象は、明るい、清々しい、爽やか、健康的、シンプル、単純、若い、希望、未来、美しい、綺麗、神話的、おとぎ話的、話が解りやすい、読みやすいといった単語で語られた。「美しい、綺麗」以外、三島作品を形容する言葉としてあまり使われない。いつもの三島の作品とは違うという感想を持った参加者が多かったのだ。

 それでは、この作品の特異性とは何なのか?まず、主人公の2人が単純であまり考えない。三島作品の主人公たちは普通複雑な内面を抱え、その心理描写にページが割かれている。しかしこの2人は迷わずただ自分であること、そこにいることに満足している。三島は彼らの内面の代わりに肉体を描写する。新治も初江も美しいが、その自覚すらない。精神性の排除により、この主人公たちは感情移入という意味で読者からの共感を得にくく、現実から乖離していく。おとぎ話のようだというのもこれが一因なのでは?

 人物の心理描写に比べ、自然の描写が多いという指摘があったが、これも意識的に精神性を排除した結果だろう。精神より肉体が描かれる人物と併せて、風景の描写が増えることで作品がより視覚的になる。何度も映画化されている所以か。

 さらにこの作品は文章も違う。三島のいつもの華麗な文体は影を潜め、短い簡潔な文章で構成されている。だから読みやすい。装飾を取り除いてなお美しい文章は、ギリシャ時代の建造物を彷彿とさせる。単純なものの美しさが文体でも表現されている。

 作品中比較的きちんと内面が描かれている千代子に、参加者、特に女性の参加者から多く共感の声が聞かれた。読書会に参加するのは、確かに初江ではなく千代子のような女の子なのだ。安夫はこの作品中唯一の悪党だが、この島社会ではそこまでの悪党でもなく、むしろ滑稽な役回りを与えられているとう意見は共感を得ていた。重要場面として特に話し合われたのがラストシーン。これはハッピーエンドなのか?という問いには様々な解釈があるだろう。ただこの場面に読者がはっとするのは確かで、そのまま夢散してしまいそうな物語を、最期に意外性という錨で留めた感がある。そしてもう一つ、嵐の海に飛び込む仕事に新治が志願する場面。そのとき何故新治は何故微笑んだのか?

 美しい自然、善い人しかいない島に、理想化し過ぎているという意見もあった。ギリシャ旅行から帰った三島は、この作品の構想を胸に、舞台とすべき風光明媚な島を日本全国から探してもらったそうだ。この島を悪いもので溢れた都会の文明から隔絶された理想郷として描いたのは事実だろう。伊勢湾の入口に浮かぶ島だ、読者は自然と日本の古代神話を連想する。温暖な気候、太陽と海、自然の恵み、善い人々、若く美しい恋人たち、神の恩寵、恋の成就。これを材料に三島が試みたのは、単純なものの美しさ、精神を凌駕する肉体を描くことだった。主人公新治は、都会に生きるインテリの三島自身のアンチテーゼ、もしくは憧れた理想の姿だったのだろうか。
(by M.K.)

読書会レポート 2017年5月

~『嵐が丘』 エミリ-・ブロンテ~

エミリ-・ブロンテの唯一の長編小説。
「世界の三大悲劇」や「世界の十大小説のひとつ」と評されている。

話の舞台は、1765年~1802年のイギリス ヨークシャー。荒涼とした自然に佇む“嵐が丘”の主人に拾われたジプシーの子ヒースクリフとその家の娘キャサリンとの親から子へ2代にわたる愛憎劇。キャサリンの「私はヒースクリフ」というセリフが有名。


強烈なキャラクターが多いせいか、その行動について疑問に思う箇所が多く、これは何故?という疑問に対して、みんなでそれぞれの意見を述べる感じで進行していきました。

Q女性のこころを揺さぶる部分はどこか?
⇒女性は自分に一途な人と王子様のような人との両天秤のシチュエーションが好き。
Qヒースクリフは魅力的なのか?
⇒悪魔的だが、キャサリンに一途なところが良い。墓を暴くシーンや、キャサリンの娘に無関心なところが良い。
Q何故キャサリン(1代目)はエドガーと結婚したのか?またはエドガーは何故キャサリンと?
⇒性格的に自分にないものを持っていたので、そこに惹かれた。
Q何故キャサリン(2代目)はリントンを好きになったのか?
⇒ヘアトンとの2択だったから、他に男がいなかった。
Q何故ヒースクリフは復讐する気がなくなったのか?
⇒明確な答えはなし。ただし作中の「哀れな結末だよ」というヒースクリフのセリフに凝縮されているのではないか。
Q嵐が丘の主人は何故、ジプシーの子を拾ってきたのか?
⇒新しい血を入れるため。結果的に、アーンショ-家の財産はヒースクリフによって守られたから、先見の明があったのでは。
Qキャサリンとヒースクリフが結婚したら幸せになったか?
⇒幸せになる 3票 理由:ヒースクリフはいつでもキャサリンを一番に考えているから
 不幸せになる 5票 理由:似たもの同士だから合わない。キャサリンは気性が激しすぎて結婚に向かない。

その他、語り部のネリーについて、色々な意見が多かったです。

・ネリーが不気味で、いつも余計なことをする。実はヒンドリーが好きなのでは。
 (別の方は、いやヒースクリフが好きなのでは、という意見もあり)
・すべてがネリーの主観で語られているから、本当の所は不明。
・すでにネリーとロックウッドのキャサリンに対する描写が異なる。
・キャサリンとヒースクリフの抱擁のシーンをずっと見ていたくだりが不自然etc.

私は(あまり疑り深くないのか)語り部だからそんなもんかと読んでいましたが、
指摘されると、確かに!と思い、あらためて他者との意見交換って面白いと感じました。


最後に、登場人物の人気投票の結果です(12人中、複数挙手可)
キャサリン(1代目) 5人/理由:可愛いから
キャサリン(2代目) 6人/理由:可愛いから
ヒースクリフ 4人/理由:自己実現してるから
エドガー 1人
ヘアトン 7人/理由:キャサリンに一途で、最後に幸せになったから
リントン・イザベラ・ジョーゼフ・ネリー・リントン 0人

以上です。
有意義で楽しい時間を過ごすことができました。
(by S.K)

読書会レポート 2017年4月

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~ドストエフスキー 「悪霊」~

 私は以前から「悪霊」が大好きでしたが、長くてテーマの暗い本なので周りの友人に勧めても読む人がおりませんでした。今回、この本を課題本として選んでから、皆さんが読書会に参加してくれるのだろうかと心配しましたが、本当に多くの方が本を読んで参加してくれました。

 皆で話し合う中で、意外にも「面白い部分が多い」という感想が挙がりました。この作品自体は組織の結束を固めるための殺人や何人かの自殺などテーマは重いのですが、その重いテーマを書きながら面白さを感じさせるというこの本の魅力は、一人では発見できなかったことだと思います。そこで今回は皆さんの発見してくれた面白い部分を書かせてもらいます。

 まずは「人が面白い」ということです。初めに出てくるステパン氏はおじいさんであるのに子供っぽいのですが、なぜか憎めないコミカルなキャラクターです。そのステパン氏が支配的なワルワーラ夫人と友情以上のつながりを持ってくっついたり離れたり、嫉妬し合ったりします。

 キリーロフもとても面白い人物です。自分が神になるために自殺すると言っている人なのですが、人間らしい側面もあって、シャートフの(元)妻が出産する時、シャートフに助産婦を呼ぶように頼まれるのですが「何なら僕が・・」といいなぜか自分でお産の手助けをしようとします。(キリーロフの職業は建設技師)その後、そのシャートフは殺され、ピョートルがキリーロフを殺人犯に仕立て上げようとします。しかし、ピョートルがいよいよ自殺してほしいというのに、なかなか自殺しないのです。ピョートルが自殺したかどうかを確かめるためキリーロフの部屋を覗いてみると、キリーロフは吼えたけりながら飛びかかってきたり、部屋の壁と戸棚の凹みに身動きせずおさまっていたり、さらにピョートルに襲いかかり指にかみつくなどします。本当に奇妙な人物なのですが、とても爆発力があり魅力的に描かれています。

 また「面白いイベント」も起こります。まずはヴィルギンスキーの家になぜかたくさんの人たちが集まり、とりとめのない話を各々していると、誰かが「これは会議なのか?」と言い出します。そもそも会議をしているのかどうかを話し合った後、「それにしても会議ってなんだ?」と誰かが言いだしたりと、実に滅茶苦茶なのです。集まったはいいけれど、ピョートルもあくびをしながら「何も発表することはない」と言い切り、本当に一体何のために集まったのだろうと思わせる集会です。

さらに新知事レンプケ氏の妻であるユリア夫人が企画した祭りがとても面白そうで参加したいという感想がありました。一部は文学の部・「文学カドリール」で、二部は終夜の舞踏会らしいのですが、初めの文学の部で既に祭りが壊れるのです。ビュッフェ目当ての「どこの馬の骨とも知れないような連中」が入場料を支払わずに多数入場してしまい、混乱を極めます。混乱の中、文学の部でのカルマジーノフ氏の朗読の際には、くどくどと述べるカルマジーノフ氏に語り手である「私」が突然ツッコミを入れだすシーンがあり、そこも思わず笑ってしまいます。とうとう追い詰められたレンプケ氏が叫びだしたと思いきや、放火と思われる火事も起こる、ユリア夫人は気絶し、祭りは幕を閉じます。

 この読書会を機に、「悪霊」の面白い所をさらに見つけていく会を開こうという動きもあり、いずれ開催されると思われます。

(by N.I.)

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東京読書会

Author:東京読書会
古典文学の名作を読み、カフェでそれについて自由に語りあいます。
肩の力を抜いて、真面目な話でなくてかまいません。

まず、メンバーで順番に、その月の課題作品を決めてもらいます。
それを読んで、毎月第一日曜日、東京近郊の喫茶店に集まり、感想を語りあいます。

古典的な名作というのは、名前は知っていても、実際に読んだことがない場合が多いので、これを機会に読んでみよう、というのが主旨です。
古典的名作だけに、読んで損をすることはないでしょう。

参加される方の割合は、初めての方とリピーターの方が半々といったところです。

読書会の告知は、毎月下旬頃(読書会の45日ほど前)から始めます。

★「FRaU」(講談社)、『TOKYO BOOK SCENE』(玄光社)、NHK「ラジオ深夜便」、東京ウォーカー(KADOKAWA)で東京読書会が取り上げられました!


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