
読書会レポート 2019年7月

~菊池寛『真珠夫人』~
私にとって読書とは決して「高尚な趣味」でもなければ、「勉強」やら「学び」ではない。
純文学や古典に造詣が深い事が偉いとか、年間100冊以上読んでるのが凄いとか、そういう感覚もない。
だから、私が読書会に参加するのも、例えば野球好きな人が贔屓のチームについて熱く語り合う、映画好きな人が映画の感想を言い合う、
推しのアイドルが同じ、好きなアーティストが共通、という人同士でコンサートやら、ライブに出かける、というのと、何ら変わらない。
共通の趣味を持つ人と好きな本談義に花を咲かせたい、ただそれだけである。
もちろん、自分1人で読んでいたら、決して読まなかったであろう、面白い本に出会える、とか、自分が気づかなかった視点からの感想を聞いて、新しい発見がある!という醍醐味はある。
それは大きな魅力である。ただ、それは私にとっては、勉強などではなく、新たな雑学を知る楽しさ、トリビアを知るような喜びなのである。
そんなわけで、どんな本だったら、参加している人達と「和気藹々」と楽しく、よもやま話ができるだろうか、その視点だけで選んだ。
思いついた候補の中に「金色夜叉」と「真珠夫人」があった。
そして、参加当日、同じテーブルの方から、菊池寛は「真珠夫人」を尾崎紅葉の「金色夜叉」を意識して書いたという話が飛び出し、なるほど、そうだったのか、
と妙に納得がいった。
真珠夫人の主人公の「瑠璃子」は菊池寛が「柳原白蓮」をモデルにした、とも言われている小説だ。
(ただし、貴族社会を舞台にする小説という点で、多少生い立ちや、人となりを参考にした程度で、実際の彼女の人生と瑠璃子の生涯は、全く違う。)
参加者からは、
「とにかく面白かった」
「分厚いけれど、あっという間にスラスラ読めた」
という声や
「矛盾があったり、ところどころ急に話が切れたりするのは、
新聞連載だったから、なんですね。娯楽が少なかった当時、きっと新聞の読者達は、毎日毎日、次の展開が気になって仕方がなかったでしょうね」
という意見が数多く聞かれた。
「極端に悪い人も出てこない。主人公の「瑠璃子」の「中途半端さ」が時代背景も感じられて、そこがまたいい」
「男を手玉にとって振り回す妖婦のようでいて、父親や兄、たった2~3歳しか年の違わない継子(義理の娘)を思う姉のような母のような心もある。矛盾と言えば矛盾だが、そういう人っているよね。男性でも女性でも。」
「人は誰しも矛盾する部分を持っているのでは?」
「男女問わず、人を惹きつけるのがうまい人はいるよね。いつの時代、どこの国でも」という意見や、
「でも、同じプレゼントを複数の人にさも、あなたは私の特別な人、と言わんばかりに渡すのは罪深い。愛人をたくさん持つ男性の手練手管みたいで、いただけない」
「ていうか、途中から人格変わっているよね?」
「嫌々結婚したから、その時点でな投げやりになって、
「瑠璃子みたいな人って実際にいるかな?」
「いないでしょ」
「いや、いるでしょ。」
「現代の有名人、芸能人などに例えると、誰?」
「出てくる男が、どの人も情けない、頼りない、カッコよくない。魅力的じゃない」
「でも、女性は瑠璃子と、義理の娘の美奈子とぐらいしか、描かれていないから、同性から見た瑠璃子像がよくわからない。」
「瑠璃子みたいな人が身近に居たら嫌?」
「いや、意外に嫌じゃないかも」
「ただ、瑠璃子のセリフが古臭いくなく、新しい時代の女性という感じもして菊池寛は当時の時代の人としては、あまり女性蔑視的な感覚がなかったのではないか」
など、様々な角度からの話題で盛り上がった。
さすが、映画化4回、ドラマ化1回、なんと初回の映画化に関しては無声映画の時代で詳細不明、というだけのエンターティメント性!
(今のところ、最後にドラマ化されたのが、2002年で、話題になった「たわしコロッケ」の昼ドラ。設定はだいぶ原作とは違っていたけれど)
二次会でも、話題は尽きることなく。私の期待通り、学術的な文学談義でなどではなく、ああでもない、こうでもない、と思い思いの感想を出し合って盛り上がることができ、素材、鮮度は抜群だけれど、庶民的で美味しいお店で食べるご飯やお酒を楽しむのと同じような
肩の凝らない楽しい時間を過ごせました。大衆小説万歳!
(by K)
私にとって読書とは決して「高尚な趣味」でもなければ、「勉強」やら「学び」ではない。
純文学や古典に造詣が深い事が偉いとか、年間100冊以上読んでるのが凄いとか、そういう感覚もない。
だから、私が読書会に参加するのも、例えば野球好きな人が贔屓のチームについて熱く語り合う、映画好きな人が映画の感想を言い合う、
推しのアイドルが同じ、好きなアーティストが共通、という人同士でコンサートやら、ライブに出かける、というのと、何ら変わらない。
共通の趣味を持つ人と好きな本談義に花を咲かせたい、ただそれだけである。
もちろん、自分1人で読んでいたら、決して読まなかったであろう、面白い本に出会える、とか、自分が気づかなかった視点からの感想を聞いて、新しい発見がある!という醍醐味はある。
それは大きな魅力である。ただ、それは私にとっては、勉強などではなく、新たな雑学を知る楽しさ、トリビアを知るような喜びなのである。
そんなわけで、どんな本だったら、参加している人達と「和気藹々」と楽しく、よもやま話ができるだろうか、その視点だけで選んだ。
思いついた候補の中に「金色夜叉」と「真珠夫人」があった。
そして、参加当日、同じテーブルの方から、菊池寛は「真珠夫人」を尾崎紅葉の「金色夜叉」を意識して書いたという話が飛び出し、なるほど、そうだったのか、
と妙に納得がいった。
真珠夫人の主人公の「瑠璃子」は菊池寛が「柳原白蓮」をモデルにした、とも言われている小説だ。
(ただし、貴族社会を舞台にする小説という点で、多少生い立ちや、人となりを参考にした程度で、実際の彼女の人生と瑠璃子の生涯は、全く違う。)
参加者からは、
「とにかく面白かった」
「分厚いけれど、あっという間にスラスラ読めた」
という声や
「矛盾があったり、ところどころ急に話が切れたりするのは、
新聞連載だったから、なんですね。娯楽が少なかった当時、きっと新聞の読者達は、毎日毎日、次の展開が気になって仕方がなかったでしょうね」
という意見が数多く聞かれた。
「極端に悪い人も出てこない。主人公の「瑠璃子」の「中途半端さ」が時代背景も感じられて、そこがまたいい」
「男を手玉にとって振り回す妖婦のようでいて、父親や兄、たった2~3歳しか年の違わない継子(義理の娘)を思う姉のような母のような心もある。矛盾と言えば矛盾だが、そういう人っているよね。男性でも女性でも。」
「人は誰しも矛盾する部分を持っているのでは?」
「男女問わず、人を惹きつけるのがうまい人はいるよね。いつの時代、どこの国でも」という意見や、
「でも、同じプレゼントを複数の人にさも、あなたは私の特別な人、と言わんばかりに渡すのは罪深い。愛人をたくさん持つ男性の手練手管みたいで、いただけない」
「ていうか、途中から人格変わっているよね?」
「嫌々結婚したから、その時点でな投げやりになって、
「瑠璃子みたいな人って実際にいるかな?」
「いないでしょ」
「いや、いるでしょ。」
「現代の有名人、芸能人などに例えると、誰?」
「出てくる男が、どの人も情けない、頼りない、カッコよくない。魅力的じゃない」
「でも、女性は瑠璃子と、義理の娘の美奈子とぐらいしか、描かれていないから、同性から見た瑠璃子像がよくわからない。」
「瑠璃子みたいな人が身近に居たら嫌?」
「いや、意外に嫌じゃないかも」
「ただ、瑠璃子のセリフが古臭いくなく、新しい時代の女性という感じもして菊池寛は当時の時代の人としては、あまり女性蔑視的な感覚がなかったのではないか」
など、様々な角度からの話題で盛り上がった。
さすが、映画化4回、ドラマ化1回、なんと初回の映画化に関しては無声映画の時代で詳細不明、というだけのエンターティメント性!
(今のところ、最後にドラマ化されたのが、2002年で、話題になった「たわしコロッケ」の昼ドラ。設定はだいぶ原作とは違っていたけれど)
二次会でも、話題は尽きることなく。私の期待通り、学術的な文学談義でなどではなく、ああでもない、こうでもない、と思い思いの感想を出し合って盛り上がることができ、素材、鮮度は抜群だけれど、庶民的で美味しいお店で食べるご飯やお酒を楽しむのと同じような
肩の凝らない楽しい時間を過ごせました。大衆小説万歳!
(by K)
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