読書会レポート 2018年1月

~ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』~

●映画『ブレードランナー』の原作本

本書は、1982年にアメリカで公開された映画『ブレードランナー』の原作本。昨年10月には、映画の続編『ブレードランナー2049』が公開され、話題となっています。

●あらすじ

舞台は、「最終世界大戦」後の地球。
放射能の灰に汚染され、廃墟と化している。
多くの生物が絶滅したため、動物を所有している事が一種のステータスとなっているが、リック・デッカードは、人工の電気羊しか飼えない。

生き残った人間は、火星に移住する者も多く、移民計画を進めるための危険な作業は、もっぱらアンドロイドにやらせている。
ある日、アンドロイド8人が、過酷な労働に耐えかね、火星から地球に逃亡を図る。デッカードは、バウンティ・ハンター(賞金稼ぎ)として、逃亡したアンドロイドを追う。


(以下、読書会で話題になった場面やテーマを中心に紹介します)


●人間くさい主人公、リック・デッカード

朝から妻にやり込められ、本物の動物を欲しがり、お金のために警察に雇われ、逃亡アンドロイドの抹殺を仕事にしています。
デッカードは、かっこいい”ヒーロー”ではなく、ごく普通の生身の人間として描かれます。


●人間とアンドロイドを見分けるテスト

アンドロイドの見た目や言動は、人間そっくり。間違って人間を殺してしまわないよう、アンドロイドを見分けるテスト「感情移入度検査」が開発されています。

“メイン料理は、ライスの詰め物をした犬の丸煮だ”
“このカバンは、人間の赤ん坊の生皮でできている”

こんな質問にどう感じたか答え、反応時間や返答内容などをテストします。つまり、生物にどれだけ感情移入できるかというテストです。

参加者からは、
「このテストで本当にわかるの?」
「感情移入が人間らしさというけど、人間の定義ってむずかしい」
「感情移入って人間だけのもの?動物は?」
などの声がありました。

テストで見分ける難しさも描かれていますが、登場人物の人間たちはアンドロイドに接すると、「何かが違う」と感じ取ります。それは、アンドロイドが「言うこと」ではなく、「言わないこと」。アンドロイドは余計なことはせず合理的、人間は非合理な生き物である、ということなのでしょう。


●アンドロイドに心惹かれてしまうデッカード

デッカードが3人目に仕留めるアンドロイド、ルーバ。彼女は、オペラ歌手を隠れみのにしています。
オペラ劇場に忍び込んだデッカードは、彼女の歌のすばらしさに心を打たれます。結局、仲間とともに彼女を仕留めるのですが、「この才能を世界で活かすことができたのでは」とデッカードは悩みます。

デッカードの心をさらに深く捉えるアンドロイドが、もう一人の主人公、レイチェル。アンドロイド製造会社の秘書をしています(会社所有のアンドロイドなので、抹殺されることはありません)。
レイチェルは、アンドロイドを守る側にも関わらず、デッカードに協力を申し出ます。
二人は一時、恋仲になるのですが、レイチェルが「人間の男を誘惑するために作られたアンドロイド」だと知り、その愛も壊れます。


●アンドロイドの悲哀

実は、レイチェルは、デッカードに会うまで自分のことを人間だと思っていました。デッカードの捜査に協力する形でテストを受け、自分がアンドロイドであることを知るのです。
毅然と振る舞いつつも、「私は、”生きて”いない!私たちは、びんのふたのように製造された。生まれてくるってどんな気持ち?」などとぶちまけ、アンドロイドであることの悲哀や、人間への嫉妬を感じさせます。

「自分はアンドロイドではないのか」とびくびくしていたデッカードの同僚もいました。アンドロイドであることは、耐えがたいものだとわかります。


●アンドロイドの非情さ

逃げ続けている、最後のアンドロイド3人は、人間にかくまわれていました。
廃墟のビルに一人で住む、イジドアという青年です。
彼は、精神機能の問題から「特殊者(スペシャル)」と烙印を押されていますが、誰よりも優しく人間の心をもっています。
イジドアは、逃げてきたアンドロイド達をかくまい、かいがいしく世話を焼きます。しかし、アンドロイド達は、そんなイジドアの優しさを理解しません。

参加者の多くが「印象に残った」と言う場面。
部屋にいた蜘蛛に目をとめたアンドロイドが、「なぜ8本も脚が必要なの?」と、1本づつ蜘蛛の脚を切っていき、歩行可能かどうか実験するのです。イジドアは恐怖で愕然とします。

アンドロイドの非情さが際立つ場面ですが、
「アンドロイドを作って、殺す人間こそ非情ではないか?」という意見も出ました。


●生き物の価値を決めるのは誰?

デッカードは、アンドロイドの歌姫に対して、「この世界は彼女の才能を活用できたはずなのに」と言います。

生き残る価値があると誰が決めるのか?
読書会でも様々な意見が出ました。

「良いものだけ残せばいいのか?」
「相模原の事件を思い出してしまう」
「生き物の価値を決めるのは誰なのか?」
「アンドロイドを殺さなくてもよいのでは?」
「でも、主人を殺して逃亡したという罪があるから」
「他の星に追放するやり方もあった」
「アンドロイドを作ったのは人間だから、人間が管理しているという構図」
「人を噛んでしまった犬が保健所に送られてしまうのと同じ事ではないか」

アンドロイドは、法律的には生物ではないけれど、生物学的には有機的な生き物と説明されており、このあたりは、現在のペットが置かれている状況が思い起こされます。
「ペットの人権の問題もある」
「そういえば、川のタマちゃんに住民票が発行されたことあった」
「ペットは、法律的には人間の管理下におかれている」
「”管理”か“同化”か?」
「アメリカと日本の違いにも思える」
などの意見が出ました。


●人間にとっての宗教、真実とは?

地球に残ったほとんどの人が信仰する「マーサ教」。
随所で出てくるのですが、少し珍妙。
教祖が、険しい山に降ってくる石に傷つきながら登るという苦行を続けていて、人々は遠隔にいながら、”融合”し、苦行を一緒に体験するのです。

「マーサ教とは何か?意味がよくわからなかった」
「キリスト教を思い起こさせる」
などの意見が。

降板、テレビで「マーサ教は偽物!教祖は三文役者で、登山もスタジオで収録している」と暴露されてしまいます。実は、暴露したのは、キャスターとして働くアンドロイド。しかし、偽者と証明したアンドロイドの思惑ははずれ、人間たちは信仰をやめません。

デッカードもそれを知りますが、妻からこれが真実だと思うか聞かれ、「なにもかも真実。これまでにあらゆる人間の考えたなにもかも真実なんだ」と答えます。
「客観」で認識するアンドロイドと、「主観」で真実をとらえる人間の違いを示唆しているのでしょうか。


●ハッピーエンド?

アンドロイドを全員抹殺し終え、デッカードは、妻の元に帰還します。

「おれがやったことは、間違いだったと思うか? マーサは、”まちがったことだが、とにかくやるしかない”と言った」とデッカードは妻に問いかけます。
妻は、デッカードがやり遂げたことを肯定し、
「それは、私たちが受けた呪い。できることは、生命と一緒に動きながら、死へ近づくことだけ」と夫を勇気づけるような発言をします。

デッカードが帰路で、本物と思って持ち帰った人工のヒキガエル(マーサ教のシンボル)。妻が、夫を喜ばせるため、ヒキガエルの餌(人工ハエ)を電話で注文するシーンで物語は終わります。


SFとしての設定やストーリーを楽しむだけでなく、人間らしさとは何か、人間以外のものとどういう関係を築くのか、いろいろ考えさせられる読書会でした。

(by 酒井)

読書会レポート 2017年11月

~エンデ『はてしない物語』~

いじめっ子から逃れるために古本屋に逃げ込んだ主人公バスチアン、店主が読んでいた『はてしない物語』という名の本を盗み出し、大嫌いな学校の屋根裏部屋で読み始める。

物語はファンタ―ジエン国で展開する。鬼火が《ハウレの森》のたき火の傍に集った岩喰い族、夜魔、豆小人の三人組を見つける。全員エルフェンバイン(象牙)塔にいる女王幼心の君のもとへある報せを届けに行くところであることが判明する。その報せとは「虚無(Nichts)が広がっている。女王に助けてもらいたい」というもの。
塔に着くと、女王は重い病気で臥せていた。女王の死はすべての生き物の終末とファンタ―ジエン国の滅亡を意味している。女王の命令のもと、アトレーユという十歳の少年が探し出され、女王の病気を治す方法を探す旅に出される。太古の媼モーラから、女王の病気を治すには新しい名前が必要だと教えられる。そして南のお告げ所のウユララから名前をつけるのは「人の子」でないといけないと告げられる。バスチアンは自分がその「人の子」だと思い、「月の子(モンデンキント)」という名を思いつき、女王のために叫ぶ。そして女王は救われた。

バスチアンは女王を救ったお礼に何でも望みを叶えてもらえることになる。バスチアンは美しくなったり、強くなったり、鉄の意志を手に入れたり、次々と望みを叶えてもらうが、その度にもっていたもとの記憶を失っていく。しかし本当の望みである「愛すること」を見つけると、人間世界に戻ることができ、愛する父親のもとに帰ることができた。

<参加者感想>
・いろいろな名前がついた新たな登場人物が次から次へと出てきて面白いが、名前にこだわるのにはどんな理由があるのだろう。作者がシュタイナー教育を受けていたからか、本人の思想によるのか。
・主人公が使命をもっていて神聖なものを探しにいくというのは聖書のグラール(聖杯)探しが原型になっている。
・「灰色」がしょっちゅう出てくる。「不安」などの意味に使われている。
・「人の子」は聖書に用いられている語。「救い主」はキリスト、メシアのこと。よってキリスト教の物語。
・サイーデという悪役が出てきてようやくバスチアンが人間臭くなり、物語が面白くなった。
・お父さんのこころの叫び「助けてくれ!わたしを見捨てないでくれ!わたしを救い出せるのは君だけなんだ!」というセリフから泣けた。
・エンデはなんて想像力のたくましい人。これほどの大作が書けるなんて本当にすごい。

今回作品を選んだ者ですが、皆さんの感想を伺い、年齢に関わらず想像力の豊かな人、ファンタジーをそのまま受け入れられる人ほど感情移入でき楽しめる作品なのではないかと感じました。

(by M・Y)

読書会レポート 2017年10月

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~川端康成『眠れる美女』~

 これまでに数度か、東京読書会に参加していたが、今回初めて課題図書を選ぶ機会をいただいた。

 この本を選んだ理由は、非常に有名な文学作品であり、また三島由紀夫をはじめとして様々な人から「文句なしの傑作」と呼ばれているため、多くの人にとってなじみの深いものであると考えたためである。
 他の参加者の方と、考えたり、話し合ったなかで、感じたことを書いてみたい。

 この作品は、年老いた男性が薬で眠らされた若い女性の温かい体に寄り添い、一夜を過ごすことのできる、奇妙ではかない悦楽の館で起こる「江口老人」の物語である。

 非常に退廃的で、身勝手な男の欲望を設定としているが、単にイヤらしいだけの卑俗な小説とはなっていない。
これは、年老いた男性が眠るだけの少女を前にして、過去の女性(過去の恋人、自分の娘、死んだ母)の断想や様々な妄念を通じて、自身の内面と向き合っている姿があらわされているからではないかと思う。

 読書会では、活発な意見、感想、感じた疑問が交わされた。
 文章の表現方法が素晴らしい、もし自分が男なら行ってみる・行ってみない、江口老人の気持ちがわかる、まったく共感できず嫌悪感を覚えるなど、さまざまであった。

 また、この作品が映画化されていることは、参加した多くの方が知っていたが、オペラ化されたこともあり、実際に見に行った方がおられた。
 機会があれば、この作品がどのように映像化されているのか、ぜひみなくてはいけないと楽しみである。

 2時間ほどの読書会であるが、1冊の課題図書を通じて、様々な方たちと感じたこと、意見の交換をすることで、自分のなかで新たな気づきがあり、今回も非常に有意義な時間を過ごすことができた。

(by M.K.)

読書会レポート 2017年9月

~ウィリアムズ『欲望という名の電車』~ 

 今回の読書会でも、他の方の感想や見方を知り、色々と気づき、考えさせられる機会となった。話し合ったことで、私が考えたことを少しまとめていきたい。

 この作品は、舞台や映画でたくさんの人に比較的馴染みのあるものである。精神疾患をもつ人物、環境変化への対応等、作者の自伝的要素が盛り込まれ、産工業の発達と文化の価値などを重んじる豊かな精神などの対比が、ブランチとスタンリーで表されている。

 映画をご覧になった方やト書きが読みにくいといった方は映画を見てから原作を読んだという方もいらっしゃった。映像や翻訳での表現が生まれることで、翻訳や映像の魅力を感じられる方がいらっしゃって、解釈や受け止め方が様々であった。
 
 国内外であまたの上演回数、多くの人に演じられて、映像、本の中のいずれにおいても、参加者の方たちにも強い印象を残すブランチ。彼女はどんな女性か。プライドが高い、過去に縛られている、愛情深い、人を見下す、純粋、古風、美への意識が高い、ヒステリックに「ポーラック」と叫んでいる、子供っぽい、年齢を気にする、男好き、綺麗な人、虚栄心の塊。------
 夢を見るような乙女の性と、獲物を捕らえてしまう女郎蜘蛛のような性。
 複雑で強烈、対極の性。自分自身でバランスが取れていない。

 男性への依存に関しては、親族からだったと、強い遺伝性との指摘があった。「死の反対は欲望」ブランチは語る。悲惨な身内の死を見送り、反動としての欲望、また彼女の生としての欲望だったのだろうか。

 そして、こうした強い男性依存を始め、彼女の精神の不安定さは、生来のものなのか、辛い過去に起因するものなのか。

 結末はについても、「この結末はハッピーエンドなのか」「この続きを書くとしたら・・・」「ここまでしなければならなかったのか」などを話し合った。
 ブランチの精神が崩壊して精神病院に行くこと。「このままいても変わらない、良くなることはない」「ブランチにとっては良かった」

 ステラやスタンリーら周囲にとって、良かった。振り回されることなく、それまでの生活を守っていくことができる。

 「ステラにとってスタンリーと生きていくことは幸せなのか」ステラはきっと幸せを感じるだろう。しかし、スタンリーに力や欲で支配されているのではないか。スタンリーがいなくなってもいい。しかし、スタンリーの暴力や欲で支配されているのは本当に幸せか。スタンリーがもしいなくなっても彼女はやっていけるだろう。

 様々な意見が出た。

 「ここまでしなければならなかったのか」確かに、、彼女は故郷から追われるくらいのことをしている。ステラの家に来てからも厚顔無恥の振る舞いである。しかし、全く異質な場所で、彼女は適応しようと努力もする。彼女は、心身傷つき、疲弊して、ニューオリンズにやってきた。自分の再生や新生を期待して、救われる場所、救ってくれる人を求めていた。

 そして、ステラの家に辿り着き、ミッチと出会った。しかし、ステラの家では、粗野で乱暴な夫のスタンリーを受け入れることができず、対立していく。ステラは、スタンリーとの生活に順応していて、満足している。

 ミッチとの交流。ブランチもミッチもともに、過去に愛する相手を失うという悲しい恋の体験をしている。「悲しみが真心を育てる」「あなたは真心こめて人を愛することができる」と、ブランチだけでなくミッチも受容や共感を求め、真心による愛情を求めた。しかし、結婚を考え、全てを知りたがるミッチにも、ブランチは自分を偽る。

 結局、彼女はどこに行っても、誰とも上手くやっていけない。どんな現実も受け入れることができない。やはり、感想で出ていたように、「これしかない」「これで良かった」なのかもしれない。

 最後に、虚飾や嘘で覆われた彼女は、全てを剥がされる。必死に隠したかった過去を剥がされる。彼女の語る言葉は切実で、心が痛くなる。これを演じる女優さんはどのような表情になっているのだろうか。

 「演者の方が、舞台なのかブランチなのか『ヒリヒリした』という表現された」という発言があった。三島由紀夫によると、作者は太宰治を好み、「いつも自分の傷口を開いて見せる」作品を描いたそうである。弱いものが打ちのめされる痛みなのか。人には言えない秘密や過去を暴かれていく痛みなのか。作者の痛みなのか。

 どんなものも敏感すぎるほどに感受してしまう。何事も刺激となる。精神は清らかでありたいと思う。でも目の前の環境や現実はそうさせてくれない。適応しなければならないと頑張るがうまくいかない。

 ブランチの結末は、悲しくもある。しかし、唯一の身内である姉を精神病院に送ることに迷うステラに友人が掛ける「生きていかなくちゃ」は、とにかく前に進むことである。元の生活を取り戻して、赤ん坊という新しい命を得て生きていくステラ夫妻。姉が去った後、ステラの「満ち足りた」様子に、「なぜ?分からない」という意見があった。彼女は、経済的にも精神的にも決して豊かではないかもしれない生活を、逞しく生きていこうとしている。そして、ブランチも生きていくのである。

 「生きていかなくちゃ」これが、私達に結末について考えさせたのかもしれない。

 ブランチを過度に憐れむものでもない。スタンリーさえ悪者としていない。だからこそ、考えさせられる。登場人物の誰もが自分の中にいる気がする。だからこそ、共感する。
 映像化されたものも、ぜひ見てみたい。また、楽しめるだろうかとワクワクする。

 今回お話をした方々のお言葉は自分にないものや共感があり、発見があったり考える機会を作ってもらえたりと、この時間も本当に楽しい時間であった。

(by TAGUA)

読書会レポート 2017年8月

~ヘッセ『荒野のおおかみ』~

「自分は昔から生きとし生けるものの両極性を貴ぶものであり、いつも矛盾性と魂の二元性とに心をひかれてきた」

「荒野のおおかみ」では、相反する理性と本能という人間の二元性、そしてヘッセ自身が文学作品を通して生涯問いつづけた「内面への道」がテーマとなっている。

時代背景は第一次世界大戦直後のドイツ。異国文化が流れ込み、機械化の進む市民生活においては、主人公ハリーが慣れ親しんできた、自然、音楽、哲学思想は軽んじられるようになる。そんな社会風潮に同調できずに孤立を極めたハリーは、自分とは正反対な生活を送りながらも同じ絶望を抱える不思議な女性ヘルミーネの導きで、ダンスやジャズをたしなむようになり、これまで敬遠してきたものたち、さらには自分自身の混沌とした内面と向き合おうと奮闘する。はたしておおかみと人間の二元性は、共存、和解あるいは克服しうるのか…?

前半はストーリー性や時系列といった理解のヒントとなる要素や人物描写が少なく読みづらいと感じた人が多かった。そもそも登場人物が少ない。ヘッセ自身が投影されたハリ―、彼が敬意をよせるゲーテ、ニーチェ、モーツァルト、そしてヘルミーネは(おそらく)ハリ―の一部であり、パブロはモーツァルトの化身ではないかという意見を汲むと、物語というよりはヘッセ自身の頭の中の葛藤をそのまま描いた作品であることがわかる。

支離滅裂な幻覚か夢ともとれる魔術劇場の場面では特にそれが顕著に感じられた。そこでハリーはついにおおかみと向き合い、おおかみを「笑い」で消滅させる。そして自分の良き理解者であり、理想の女性の象徴でもあったヘルミーネをも刺し殺してしまう。もちろん、すべてはハリーの劇場、精神世界での出来事である。

一見、破滅的な結末のようだが、ハリーは最後にモーツアルトに「永久に生きる罰」を処され、生きることを、ユーモアを学ぶよう諭される。自分自信の苦悩、真剣さ、悲壮感を笑い飛ばすことで「能力の衝動や努力の残余の全混沌」であるおおかみと別離する。

永久に生きる罰―それはヘッセが自分自身に課したある種の希望でもあった。作家として作品や思想を残すこと、すなわち死への恐怖や時間という障害を乗り越え、「永遠」を目指すことで、今後の人生を歩む決心と希望を見出したのではないか。彼の“不滅なものに対する強い信仰”が感じられるエンディングである。

作品全体には、死、神、永遠、自由といった形而上学的テーマがちりばめられ、(翻訳の堅苦しさも相まって)難解で憂鬱と感じる人が多かった。それでも、魔術劇場での一幕は退廃的なヌーヴェルヴォーグの映画のような疾走感や、デヴィット・リンチのサイコスリラー映画のような不気味さがあり、文学作品として十分に楽しめる要素もある。また、読書会で視聴したSteppen wolf の音楽やヒッピー運動は、反戦思想、自由と平和を唱えたヘッセから大きな影響を受けている点からも、彼の作品は多方向からの解釈が可能だ。東洋思想的な魂や個性とらえ方、精神分裂症や人格形成といった心理学的キーワードからこの作品を読み解くのも面白いかもしれない。

最後に、物質的に満たされた世界で、生活に追われ自己と向き合うことがないがしろにされているというヘッセの批判は、現代人にも通ずるところがある。答えのない問いは不必要といえばそれまでだか、意味がないわけではない。自己探求や人間の美徳とは何かといった古典的テーマを熟考してみるきっかけとして本作品を読み返してみることをお薦めしたい。

(By T.S.)
プロフィール

東京読書会

Author:東京読書会
古典文学の名作を読み、カフェでそれについて自由に語りあいます。
肩の力を抜いて、真面目な話でなくてかまいません。

まず、メンバーで順番に、その月の課題作品を決めてもらいます。
それを読んで、毎月第一日曜日、東京近郊の喫茶店に集まり、感想を語りあいます。

古典的な名作というのは、名前は知っていても、実際に読んだことがない場合が多いので、これを機会に読んでみよう、というのが主旨です。
古典的名作だけに、読んで損をすることはないでしょう。

参加される方の割合は、初めての方とリピーターの方が半々といったところです。

★「FRaU」(講談社)、『TOKYO BOOK SCENE』(玄光社)、NHK「ラジオ深夜便」、東京ウォーカー(KADOKAWA)で東京読書会が取り上げられました!


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